いわゆる幕末、江戸幕府の崩壊から明治維新、戊辰戦争までというのは、戦国時代と並ぶくらいに日本史の中では人気のある時代です。
幕末期でなんといっても人気があるのは土佐の風雲児坂本龍馬でしょう。鹿児島に行けば西郷隆盛は今でも神様扱いですし、長州の高杉晋作にも根強い人気があります。幕府方ではやはり一番人気なのは新撰組の面々でしょうか。あたしがこよなく尊敬している勝海舟も結構人気のある人物です。ちょっとマニアックなところでは、司馬遼太郎の小説で有名になった長岡藩家老河井継之助も信奉者の多い人物です。
今回は、そんなメジャーどころの藩と人物の話ではありません。しかし、彼らは困難な状況下で最善を尽くし、抜群の成果をあげ、そしてその身と領民の安寧を全うしました。その事績には一片の悲劇性も無く、むしろそのせいで人々の感情に訴えるものがなく小説などでは取り上げにくいのでしょうが、成し遂げた成果はいくら賞賛してもし足りないくらいのものだと思います。
今回書いてみたのは、出羽庄内藩16万7千石と藩の命運を担って戦った一人の若き家老の物語です。
そもそも庄内藩というのは変わった藩でした。
藩主酒井家は、有名な徳川四天王の筆頭酒井忠次の子孫です。当初酒井家は他の徳川四天王、本多・井伊・榊原各家よりも冷遇されていましたが、忠次の孫の忠勝の時代になって譜代屈指の石高を与えられ出羽庄内藩を立てました。藩主は代々内政に努め、実際には30万石近い国力を得るまでになりました。庄内平野は豊かな米どころであり、庄内藩は富裕で知られるようになります。
しかし、江戸中期になると出費がかさむようになり、他の大名家と同様に借金に苦しむようになりました。ここで、酒井家はある決断を下します。領内酒田には海運業で大を為し、江戸時代では日本最大の大地主として名を馳せた豪商本間家の本拠があったのですが、この本間家の当主本間光丘に藩の財政再建を委任したのです。有能な上に憂国の志を持っていた光丘は見事に再建を成し遂げ、このおかげで庄内藩は飢饉でも餓死者をほとんど出さず、領民は藩の善政を謳歌しました。酒井家には何度か転封、つまり藩主交代国替えの話もあったのですが、領民はわざわざ江戸に直訴までして酒井家の統治継続を懇願しています。このおかげか、酒井家は譜代大名としては珍しく、庄内から動くこと無く幕末を迎えることとなりました。
幕末期になると、他の譜代各藩が次々と朝廷方に寝返る中で、庄内藩酒井家はあくまで幕府の為に戦う姿勢を全うすることにしました。家老菅実秀はなかなかのやり手で、いずれ朝廷方との戦闘は避けられないと判断し庄内軍の近代化に着手します。まず、例の本間家の全面的な支援もあってドイツ系商人スネル兄弟から大量の武器弾薬を購入しました(長岡藩の河井継之助が武器弾薬を購入したのもこのスネル兄弟からだったのですが、庄内藩の方が規模といい時期といい遙かに先んじていました)。更に、これらの新兵器を従来の武士ではなく、町人や農民から兵を募って装備させ、西洋式の訓練を施したのです。庄内藩はこの新編成部隊を五個大隊保有しており、後の戊辰戦争では幕府側最精鋭の名をほしいままにすることになります。
さて、鳥羽伏見の戦いで将軍徳川慶喜が敵前逃亡し、新政府軍が東海道を進撃して江戸の無血開城がなると、その矛先は東北へ向けられることとなりました。東北の佐幕諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して対抗することになりましたが、彼らには統一した戦略がある訳でも無く、またその装備は一部の藩を除けば旧式でもあり、到底新政府軍に対抗できるものではありませんでした。事実、仙台藩(伊達家)や会津藩(松平家)といった大藩もなすすべもなく敗れ、同盟は瓦解することになります。よく土方歳三の奮戦や河井継之助率いる長岡藩の戦い振りが喧伝されますが、彼らの活躍も一戦場のエピソードといった程度の意味しか持っていませんでした。しかし一カ所だけ、秋田方面での戦闘については、新政府軍は敗戦に敗戦を重ねています。この秋田戦線で戦ったのが庄内藩でした。
庄内藩は、まず同盟にとっての南の最前線である白河口を守るべく、仙台藩や会津藩の求めに応じて援軍を派遣することにしていました。その準備中、隣国の久保田藩(佐竹家)が同盟を離脱して寝返ったとの知らせが入ります。新政府軍は海路秋田方面に援軍を送り、久保田軍と合同で西北から同盟への攻撃を加える構えを見せました。そうなると、必然的に最前線に立つのは庄内藩となります。白河への援軍として予定されていた部隊は直ちに秋田方面への防備にあたることになりました。この部隊の指揮を執ることになったのが、庄内藩二番大隊指揮官だった家老、酒井玄蕃了恒でした。
酒井了恒はこのときまだ26歳の若さでした。温厚にして沈着でありながら剣術の達人として知られ、藩の未来を担う大器として上は藩主から下は領民に至るまで期待と敬愛を集めていた人物です。体が弱く、当時既に結核を患ってはいましたが、病身を顧みず軍旅に身を投じることとなりました。。彼が掲げた旗印が破軍星旗、つまり逆さに北斗七星を描いた軍旗です。北斗七星の端の星は破軍星と呼ばれ、この星に向かって戦えば必ず敗れ、この星を背にして戦えば必ずや勝利すると言われていました。
藩の首脳は、まずどのような戦略で戦いに臨むかに頭を悩ませることになりました。端的に言えば、攻勢を取るか防勢を取るか、です。藩の境界にて防備を固め、見知った土地にて地の利を生かして敵を叩く、というのはいかにも理にもかなった魅力的な案でした。実際に、同盟方諸藩のほとんどが新政府軍の侵攻を迎え撃つ構えを取っています。しかし、了恒はこの方針に否を唱えました。そんなことをすればあたら無辜の領民を苦難に晒し、領内は荒れ果ててしまうではないか、と。しかも、一手を撃砕したところで敵は優勢、必ずや援軍を送ってくることは目に見えている。ならば、敵の侵攻を食い止めるにはその根拠地を叩く他無い。つまり、了恒は積極策、攻勢案を主張したのです。結局この攻勢案が採られることとなり、了恒率いる庄内軍は久保田藩の本拠地久保田城(秋田城)を目指すこととなりました。
本拠鶴ヶ丘城を進発した庄内軍は一番・二番大隊、三番・四番大隊の二手に分かれて久保田藩領内に侵攻する構えを取りました。ここで更に庄内藩の隣国である新庄藩が同盟を裏切り、新政府側についてしまいます。新庄藩の手引きで薩摩・長州・佐賀・小倉の連合軍が庄内へ侵攻を開始、国境に配置されていた仙台藩を主力とする部隊は奇襲攻撃を受け敗走しました。これに対し、庄内藩二番大隊が正面から攻撃を掛け、更に一番大隊が敵背後を奪う機動を成功させて新政府軍は壊走します。幕末で無敵を誇った薩摩軍が壊走するなど、珍しいことでした。
幸先良い一勝を挙げた了恒の戦術は冴え渡り、翌日には迂回攻撃をもって新庄城を陥落させます。それから二ヶ月の間、庄内軍は数に勝る新政府軍を圧倒し続けました。新政府軍は翻る破軍星旗に恐怖し、了恒は「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられました。庄内軍は目的だった久保田城まであと僅かのところまでに迫ります。
久保田城を奪われることは、秋田戦線の崩壊のみならず明治新政府の威信を大きく傷つける事になると判断した新政府軍は、何が何でも久保田城を守り抜く決意を固めます。薩摩藩の精鋭部隊を投入、久保田藩や新庄藩の部隊には最新鋭の武器を支給し、久保田城の近く椿台に強固な防御陣地を構えて庄内軍を待ち構えることとなりました。更に、何ともタイミングの悪い事にこの頃了恒の病状が悪化、指揮を執ることができなくなってしまいます。このような状況で行われた椿台の会戦で、庄内軍は攻勢を阻止されて退却、はじめての敗北となってしまいました。
既に同盟側の劣勢は明らかでした。既に米沢藩は降伏し、会津藩も本拠地会津若松にて絶望的な抵抗を続けているだけでした。同盟各藩が総崩れになる中、敵地に脚を踏み入れて戦い続けているのはもはや庄内藩だけでした。これ以上の攻勢は不可能と判断した庄内藩首脳は、庄内藩内への撤退を決意します。しかしただで敗れるのは藩の誇りが許さぬ、ここで一勝を挙げておくことは戦後交渉でも必ずや良い材料となるだろう、と考えた了恒の発案で、刈和野にて最後の戦闘が行われ、庄内軍は快勝を収めます。この時も了恒は寝込んでいたのですが、病身をおして駕籠に乗って前線に赴き、将兵を叱咤激励しています。
戦闘開始から二ヶ月余り、ついに庄内藩は新政府軍に降伏を申し出ました。他の藩が領内を戦禍で荒らされ多くの民衆が被害を受けたのに対し、終始敵の領内で戦っていた庄内藩にはそのような被害はありませんでした。降伏を受けたのは秋田で庄内藩と何度も戦い何度も煮え湯を飲まされてきた薩摩藩でしたが、その首魁西郷隆盛は極めて寛大な処分にとどめました。藩主は謹慎させられましたが誰も責任を問われることもなく、酒井家は所領を12万石に減らされた上で転封させられましたが一年あまりの後に庄内に復帰することができました。これらの寛大な処置は、無論庄内藩の戦い振りが勝ち取ったものですが、降伏した相手が薩摩藩だったというのも幸運でした。薩摩藩は伝統的に「戦いが終われば敵もまた友である」「勇敢に戦った者は敵であっても勇者として讃えるのが当然である」といった精神性を持っており、それを体現したような人物が西郷だったからです。降伏の折り、西郷はこう語ったといいます。「貴藩は家康の時代以来徳川四天王の一角にして譜代の筆頭であり、徳川家からは篤い恩を受けている。その貴藩が徳川家の為に断固として戦うのは武士として当然のことであって、何ら恥じることはない」と。
明治時代になると、了恒は兵部省にて働くことになりましたが、肺の病はいよいよ進み邸に引きこもっていることが多かったそうです。そんな折りにかつて秋田で戦った薩摩軍の指揮官(後に西南戦争で処刑されることとなる大山綱良だといいます)が了恒と面会したことがあるのですが、「あの鬼玄蕃と恐れられていた貴殿が、まさかこんなに温和な美少年であったとは」と驚愕した、という逸話も残っています。
また、政府より清国の偵察を命じられ大陸に渡ったこともありますが、この時の報告書は日本が中国を敵に回す上での問題点が列挙してあり、その指摘の多くが後の日中戦争で的中したといいます。
秋田での戦いから8年後、了恒は34歳の若さで亡くなりました。
了恒は戦場にあっては戦えば必ず勝つとまで言われた名将であり、また将兵にとっては慈愛に満ちた指揮官だったとの逸話も多く残っています。病に冒されながら陣中では兵士と苦楽を共にし、同じものを食べ、偵察に出した兵士が戻るまでは一睡もとることはなく、寝る時でさえ軍装を緩めることはありませんでした。占領地の民衆への配慮も怠らず、略奪強姦を厳禁し、敵兵の遺骸すら手厚く埋葬したともいわれています。軍旅の忙中にありながら漢詩を詠み、書をたしなみ、笛や雅楽の名手だったともいいます。花も実もある名将だったと言うべきでしょう。
先にも書いたとおり、あまりにも完璧に戦いすぎたために庄内藩の戦いには悲劇性も悲壮感も無く。それが徒になってあまり有名になることもないのでしょうが、恐らく幕末の動乱にあって幕府方最良の指揮官を選ぶとすれば彼をおいて他にはないでしょう。
長岡藩を戦禍に叩き込んだ河井継之助が、小説の読者には賞賛される一方で地元の古老からは今も悪し様に罵られるのに対し、了恒は今でも地元からは慕われているといいます。
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