裏切りの連続だった武田信玄の人生の幕を飾ったものはやはり裏切りでした。いわゆる「西上作戦」、つまり信長包囲網に応じての西方攻勢作戦がそれです。

 先に述べた通り、駿河侵攻に伴う信玄の戦略破綻と苦境を救ったのは織田信長との同盟関係でした。終始険悪な関係だった松平(徳川)家康が積極的に仕掛けて来なかったのは信長が圧力を掛けていたからでしたし、上杉謙信との停戦を仲介してくれたのも信長でした。上杉との停戦は北条氏の戦略転換をもたらし、信玄は危地を脱したのです。
 信玄自身が書状で書いているとおり、信長の存在無しには武田氏は立ちゆかない状態でした。そして信長自身、それは重々承知していたはずです。信長からして見れば、武田信玄には貸しがあり、婚姻関係でも繋がっていてお互い利用しがいのある同盟者だったのです。
 しかし信玄はこの信長を裏切りました。一般的には何故か「信長包囲網の大トリ」扱いされている信玄は、足利義昭や本願寺顕如の度重なる懇請に応じ最後になって包囲網に参加したのであり、それは信長からすれば青天の霹靂であり最悪の裏切り、造反に他ならなかったのです。信長の怒りは、それは凄まじいものでした。彼がこの直後、上杉謙信に送った書状にはこんなことが書かれています。
「貴殿も知っているように、自分は信玄の為に貴殿との間を取り持とうとさんざん骨も折った。しかるにこの度の信玄の裏切りは古今未曾有、武人の風上にも置けない天魔外道の行いと言うべきだ。絶対に許さない…」
 そしてこの一報に触れた謙信の反応もまた、信玄のやったことを端的に物語っているでしょう。彼はこう語ったといいます。
「信玄が信長と戦いはじめたのは、わざわざ蜂の巣に手を突っ込むようなものだ。いくら信玄が老練とはいえ生半可なことではない。しなくてもいい戦いを始めて自ら苦境に陥るとは、信玄も何を考え違いしたのか知らないが我が上杉としては幸運というべきだ」

 では何故信玄が信長包囲網に荷担し、恩義のある信長を裏切ったのか。
 通説では、信玄が信長との関係を破棄し本格的に三河侵攻を開始したのは元亀2年春頃とされてきました。これは第一次信長包囲網に呼応した時期なのですが、近年では資料研究が進み、この元亀2年の三河侵攻は実際には天正3年、つまり勝頼が武田家当主となった後のことであることが分かってきました。つまり、信玄は第一次信長包囲網の時点ではまだ信長に敵対はしていなかったのです。
 実際に信玄が動き出したのは元亀3年の後半でした。この年の8月、信玄は本願寺顕如に依頼して上杉氏の領国越中で一向一揆を起こさせています。この一揆はかなり大規模なもので、謙信はこの対応に忙殺されることになりました。信長を通じた停戦協定の上にこの一揆が重なり、信玄にとって北からの脅威はほぼ無くなったと言っていいでしょう。
 思い出してください。先に今川氏を裏切って駿河侵攻に至った際も、状況は同じでした。川中島の戦いの後北信濃の情勢は安定し、上杉氏の脅威は一旦解消されたのです。東は同盟国である北条氏の領域というのも同じ。そこで信玄は先に駿河を奪いにいったのと同じように、今度は遠江を三河つまり徳川氏の領域を奪いにいったのです。信玄からすれば、元々遠江と三河は今川氏の領域であり、自分が併呑すべきであってそれを徳川に取られるなと許しがたかったのかもしれません。
 ただ一点前回と異なっているのは、家康には信長という同盟者がいたということです。しかしこの時点で信長は畿内で三好、朝倉、浅井氏らや本願寺と交戦しており、徳川への援軍をすぐに出せる状況では無いように見えたでしょう。しかも、信玄からしてみれば信長は家康にさほど肩入れしていない上影響力も無いように見えたのかもしれません。何となれば、信長は何度も家康に信玄との和平を持ちかけていましたが家康は全くこれに応じませんでしたし、遠江で小競り合いをしても信長が介入してくる様子もなかったからです。
 つまりどういうことかと言えば、恐らく信玄は別に京へ上洛して信長を斃そうなどとは考えていなかったのです。信玄はあくまで家康を粉砕し遠江三河領国を奪う事を目的としていた、と。
  
 西上作戦時の武田氏の国力はおよそ120万石に達していました。戦国大名の動員兵力を計算するやり方は色々ありますが、外征時には1万石あたり150人から200人、防衛時の根こそぎ動員で300人から350人という計算が妥当だと言われています。作戦にあたって信玄が用意した兵力は約2万5千であり、これは1万石あたり約200人であって、信玄は外征に使える全兵力を注ぎ込んだと言っていいでしょう。
 対する徳川氏の国力は約50万石、動員兵力は根こそぎで1万5千を超えますが、これをやると戦後の疲弊が酷いことになります。実際に家康が動かした兵力は1万を少し越える程度だったようです。肝心の織田氏の国力は300万石程度と思われ、動員兵力は軽く6万を越えるのですが、この時点で周囲を敵に取り囲まれており信玄相手に全力をぶつけるわけにもいきません。
 つまり家康を倒しその領国を奪うのであれば、2万5千という兵力は成算があるものだったのです。そして実際に戦役はその通りに進行しました。

 作戦開始にあたって、信玄は山県昌景に兵3千を与えて北三河に侵攻させました。これは巧妙な手で、ただでさえ兵力の少ない家康は三河の兵をもってこれに対処せざるをえなくなり、主攻である信玄の本隊は遠江の兵だけで迎撃するしかなくなりました。山県昌景は先に粛清された飯富虎昌の実弟で、兄に勝るともいわれる猛将です。たちまち北三河を蹂躙、遠江まで打通して信玄の本隊と合流します。
 武田軍の猛威に、徳川氏に従属していた国人領主達は動揺します。これを抑える為にも家康は不利を承知で野戦を挑まざるを得なくなり、信長が派遣した3千の援軍と合わせ1万1千の兵力で決戦に臨み、惨敗します。三方ケ原の戦いです。
 まさに鎧袖一触の勢いで粉砕された家康は浜松城に引きこもります。このまま進撃すれば、遠江のみならず三河も信玄の手に落ちたでしょう。しかし武田軍は進軍を停止します。信玄の病状が悪化した、というのがもっぱら語られる理由ですが、それだけではないでしょう。実はこの時、信長包囲網の一角である越前の朝倉氏が、近江へ出していた軍勢を撤退させていたのです。
 信玄は朝倉義景に翻意を促しますが効果は無く、結局武田軍は当初の勢いはどこへやら、三河東部で三ヶ月ほどもたもたとやる気の無い戦闘を続けた挙げ句撤退します。撤退理由は本当に信玄の病状が悪化したからですが、それまでの三ヶ月間まともに侵攻を行わなかったのは信長の出方を伺っていたのでしょう。先に触れたとおり、信長は家康に3千の援軍を出してはいますが、せいぜい義理立て程度のものでしかありません。信長としても信玄が本気で織田氏の領国まで乗り込んでくる気なのか家康を潰すだけのつもりなのか図りかねていたのでしょうし、信玄としても信長が本気で家康を救う気があるのかどうなのか見極めが付かなかったように思えます。
 結局信玄は甲府に戻ることなく、撤退中に病没しました。享年52歳は案外若死にでしょう。信長ですら死んだ時は49で、3つしか違わないのです。

 こうして信玄の時代は終わり、勝頼が当主となることになるのです。

0 コメント: