長々と書き続けてきて、とうとう五回目になりました。本当は武田勝頼の苦闘について書き綴るつもりが、その前置きとして父信玄のことにどうしても触れておかねばなりませんでした。しかし、勝頼の生涯はほぼ信玄によって決定づけられてしまっていたので、どうしてもこうなってしまうのです。
ともかく武田信玄は死にました。何もかもを途中で、そして最悪の状態で放り出して死んだ、と言ってしまっていいでしょう。
さて、死に際して信玄はいくつか遺言を残していました。遺言状そのものは現存していませんが、その内容は有名な「甲陽軍鑑」に記録されており、そして様々な古文書を踏まえた考証により記録の信憑性は高いと考えられています。
この遺言のうち、二つほどはよく知られています。第一に、自分の死を三年の間伏せ内政に励め、というもの。第二に、遺体は諏訪湖に葬れというもの。しかしこの二つの他に、更にいくつも指示を残しています。以下箇条書きにしてみましょう。
・何かあれば、義理堅い上杉謙信を頼るように。
・武田氏の後継者は勝頼の子武田信勝とし、勝頼は信勝成人までの陣代(後見人)とする。
・勝頼は武田氏惣領の旌旗(いわゆる風林火山の旗)を使用してはならない。諏訪法性の兜(信玄の肖像に描かれることが多い、角と毛で飾られた兜)は使用してもよい。
この遺言状こそ、信玄の生涯最後にして最大の失策であり、勝頼の運命を決めてしまった呪いの文書である。あたしはそう考えています。
この条々から読み取れるのは、信玄が後継者たる勝頼を全く信用しておらずそれを隠す気もなかったということ、そして自分が死んだ後の勝頼の立場を何も考えていないということであり、結局のところ武田信玄というのは根っからのワンマン社長でしかなかったということでしょう。つまり、この遺言は「勝頼は正統な後継者ではない」という宣告に他ならないのです。
思い出してください。元々勝頼は側室の子であり、武田氏の正嫡ではなく諏訪氏の後継を予定されていた立場です。それが武田の後継者となったのは、信玄が自分の都合で嫡子義信を粛清したからです。こういう、元々正統性に疑問符がつく立場の勝頼に、そのような目で見える形での区別対応まで行ってしまったらどうなるのか。信玄がこのあたりを真剣に考えていた形跡は、少なくともあたしには見受けることができません。もし真面目に勝頼の正統性の担保を考えていたのであれば、打てる手はいくつもあったはずなのに。
例えば、義信が粛清され勝頼が後継者と定められて間もない頃、信玄は勝頼の改名を考えています。具体的には、京で信長の庇護下にあった将軍足利義昭に、その一字拝領を願い出ているのです。当然この申請は信長を通じて行われたらしいのですが、返答はありませんでした。是とも非とも返事がなかったのです。この時点で勝頼は信長の娘婿であり、信長からすれば拒否する理由は無いはずなので、おそらくは多忙に紛れて話が中途で消えてしまったのでしょう。もしこれが実現すれば、勝頼は武田昭信と改名していたはずです(信玄の出家前の名である晴信は、将軍足利義晴から一字を拝領してのものですから)。
しかし信玄は申請の確認も重ねての申請も行わず、勝頼の名はそのままでした。将軍から必ず一字貰わなければならない訳でもないので、勝手に名を変えるのであれば変えることはできたでしょうし、おそらくはそうするべきなのにそうしなかったのです。信玄は勝頼の名と正統性の問題を軽視していたとしか思えません。
結局、勝頼は武田の惣領を継ぎはしましたが、あくまで正統後継者たる信勝成人までの後見人、他所者である諏訪氏の名を名乗ったまま、という露骨に継子扱いの継承になってしまったのです。戦場に立つ場合もその旌旗は「風林火山」ではなく「大」一文字であり、これは諏訪大明神の「大」に他なりません。
勝頼が信玄と比べてカリスマが無かったとか統率力に欠けていたとか掌握能力が無かったとか、そういう次元の話ではなかったのです。最初からハンデを負わされていたようなものなのですから。
このような形で武田氏を継承した勝頼はまず行わねばならなかったのは、自らの権威を確立し家中を統制掌握することでした。戦国大名たる勝頼にとって、その手段は戦争と勝利しか無いのは言うまでもありません。信玄の遺言はいけしゃあしゃあと「三年は内政に励め」などと言っていますが、そんなことができる立場ではないのです。
しかも、信玄が死んでから数ヶ月の間に、武田氏を取り巻く状況は更に悪化していました。信長と戦っていた近江の浅井長政、越前の朝倉義景は滅ぼされ、将軍足利義昭は追放されました。何の事はない、勝頼が継いだばかりの武田氏は、信長の主敵としていわば取り残された形となってしまったのです。掛けたハシゴを外された、とでもいえばいいかも知れません。
後知恵承知で考えれば、勝頼にとって最善の方策はこの時点で信長に和睦を申し入れることだったでしょう。先の手切れは老病で正気を失った信玄の失態であり、自分が家督を継いだからには従来の友好関係を保ちたい、と。信長がこの申し出を受けたかどうかはわかりませんが、可能性はゼロではなかったでしょう。しかし無論、こんなことができるはずがありません。信長が受ける受けない以前に、勝頼にそんな外交的アクロバットを強行する権威も権力も無いのです。
となると、勝頼にできるのは主導権を握りしめて離さないこと、これに尽きます。事実勝頼はそのように動きました。年が明けて天正2年2月、つまり信玄の死から10ヶ月後、家中の体制をひとまず整えた勝頼は攻勢に打って出ます。
勝頼の攻勢とその顛末については、また次回触れることとします。
14 年前
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