天正3年2月、信玄没後のごたごたをひとまず収拾した勝頼は攻勢に打って出ました。
 先にも書いたように、信玄の遺言では3年間は喪を秘して内政に励め、ということになっていました。しかし3年どころか半年もしないうちに信玄の死は周知の事実となり、信長は浅井朝倉両氏を相次いで滅ぼし、家康もまた三河北部で武田氏についていた豪族奥平氏に圧力を掛け寝返らせるなど反攻に転じています。
 このまま黙って防戦一方になると国力で劣る武田氏としては不利である、との勝頼の判断には一定の合理性はあったでしょう。

 まず攻勢を取ったのは美濃方面でした。美濃東部の岩村城に駐留する猛将秋山虎繁に明知城を攻撃させ、これを陥落させています。明知城は西は信長の本拠地岐阜、南には家康の本拠地岡崎を望む要衝であり、信長も救援すべく出兵しようとしましたが、落城に間に合わず断念しました。
 こういう「城を攻撃され、後詰(救援)が間に合わない」という事態は大名勢力を問わずこの後も散見されますが、一般的な想像以上に深刻なことである事は抑えておるくべきでしょう。城主というものは多くの場合大名勢力に従属している小勢力(国人、豪族、小大名など)の主であり、攻撃を受けた時に大名勢力からの援軍を受けられなかったという事実は大名の威信に大きな傷をつけるのです。
 この時は美濃東部における信長の威信が損なわれる結果となりました。先に岩村城を奪われ、今度は明知城を落とされ、これに有効な対処ができなかったことで美濃東部の国人衆は動揺します。この後、信長にとって岩村城と美濃東部の奪回は重要な命題になっていきます。
 更に6月、勝頼は自ら軍勢を率いて遠江東部の高天神城を攻撃、これを陥落させます。この城は堅塁として知られ、先の西上作戦でも信玄が攻略を断念したほどでした。これを落としたことで、勝頼の威信は大きく高まることとなります。一方、またしても援軍を出せなかった信長と家康の声望は損なわれ、遠江東部はほぼ武田氏が制圧することとなりました。
 この一連の戦役で、信長・家康の勢力と境を接する美濃と遠江において、勝頼は敵の領域に踏み込んで主導権を確保したことになります。この頃に作られた落首にこんなものがあります。
「代替わり飛ぶ鳥落とす御威勢は勝つより他になしと見えたり」

 無論、「勝つより」を「勝頼」に掛けているのです。
 強すぎる大将。勝頼を評する言葉にこういうものもあります。「甲陽軍鑑」に記されているものですが、それは確かに事実だったでしょう。戦勝で威信と正統性を確保しようと考えた勝頼はその通りに行動し、そしてそれを実現していったのです。この頃に信長が上杉謙信に当てた書状の中で、勝頼のことを「信玄の遺訓を守っているのか、若年ながら表裏進退をわきまえた油断ならない相手である」と評していますが、これは彼の偽らざる本音だったでしょう。
 しかしこの時点で、武田と織田・徳川連合の国力差は絶望的なほどにまで開いていました。美濃東部と遠江東部を抑えたところで、戦力比は倍以上になります。主導権を握り続けることで戦力の劣勢をカバーする、というやり方は「三国志」における蜀の丞相諸葛亮の戦略にも通じるものがあるかも知れません。思えば蜀も甲斐も、天険の地とはいえ国力には劣る山がちな盆地という共通点があります。対する敵、つまり魏も織田も、開けた中原を抑え圧倒的な国力を誇っていたのですし。

 そしてこの翌年、勝頼にとっては致命的な敗北となる長篠の戦いが起きるのです。

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