2014/11/23

閑話休題

 またぞろ連載が止まってしまいましたが、ちょっと続きをどう書こうか悩んでいるところがあります。これには理由というか言い訳があるのですが、今回はその話を。
 

 最近、何冊かまとめて織田信長についての本を読みました。いずれも、ここ数年で急速に進展した信長研究を踏まえたもので、かつての織田信長のイメージどころか「最近の新説」として知られるようになった立花京子氏や藤本正行氏の論考ですら更に批判と指摘を受けて更なる新説が提示される、といった状況になっています。
 これについてはいつか詳しく書いてみたいのですが、簡単に言うと「革命家・革新的指導者・時代を切り開く者」としての織田信長のイメージは、学術的にはほぼ綺麗さっぱり否定されつつあります。彼は別に時代を超越した天才でもなければ時代に風穴を開けた革命児でもない、むしろ中世の終わりに位置した人物ではなかったか、と。

 こういう本を読んだあと、例えば「信長の野望」をやってみるとなんともいえない気分になります。最近の「信長の野望」には歴史イベントがふんだんに盛りこんであるのですが、ここで描かれる信長はかつての信長のイメージそのものであり、広く知られているそれそのものです。そうした姿をみるとなんとなく懐かしい気もしますが、その一方で空々しい気もします。
 …別に、新知識を得て得意がっているつもりはありません。ですが人の認識というのは時につれて変わるのです。文章を書くというのは、うつろいゆく認識を文章というものに固定化していく作業でもあります。武田勝頼のことを長々と書いてきたあたしの作業も、もしかしたらこの先うつろう認識によって大きく覆るのかもしれません。
 まあ、今この時点での認識を残しておく作業が無駄だとも思いませんので、あまり気にしなくてもいいのかもしれませんが。

 似たような経験を、何度かしたことがあります。
 例えば、中学生の頃のあたしは司馬遼太郎の「燃えよ剣」という小説が大好きでした。主人公の土方歳三の姿に大いに憧れたものです。しかし大学に入った頃に読み返してみると、何でかつてあんなに熱狂したのだろう、と首をひねるほどに、土方の姿は色褪せていました。更にその後数年して読み返したところ、今度は土方の姿をいくらか冷静に見ることができるようになっていました。熱狂も、失望もなく。それもあたしの認識が変わっていったからなのでしょう。
 あるいは、かつて親しく付き合っていた友人としばらくぶりに再会した時に感じた違和感も同様のものでしょうか。その人は全く変わっていませんでしたから、違和感の原因はあたしの方にあるのでしょう。それが何なのかはっきりわかるほどにはあたしも老成はしていませんが、時計の針は戻らない、というのはこういうことなのか、と実感することはできました。

 うつろう認識をそのままに形として残す行為は、あとから振り返ると身悶えするほど恥ずかしい結果を招くことにもなります。往々にしてそれは黒歴史などと呼ばれるのでしょうが、それでも途中まで手を付けた作業を投げ出すこともできません。
 どうにか最後まで書いていこうとは思っています。あと少しなのですし。

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