誰も読んでいないような気もしますが、やはり手を付けた以上終わりまでやらねば無責任というものかも知れません。というわけで久しぶりの続きです。
 8ヶ月振りになってしまったのはどうにも情けない話ですが…


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 長篠の合戦は天正3年(1575年)5月21日のことでした。これにより勝頼の攻勢は阻止され、武田氏は三河への橋頭堡を失いました。長年武田の圧迫を受けていた徳川家康はこれで一息つくことができるようになり、遠江方面への進出を図るようになします。
 一方の織田信長も、当然自分の勢力圏内に打ち込まれた勝頼の楔を取り除きに掛かります。美濃東部の要衝、岩村城がそれでした。


 岩村城は元々美濃の国人領主遠山氏の居城ですが、美濃東部の要衝ということもあって以前より西の斎藤氏及びその滅亡後は織田氏と東の武田氏の勢力に挟まれる形となっていました。こういう場所に位置する国人領主の例に漏れず、遠山氏もまた東西の両勢力の間で生き残るべく苦労を重ねています。具体的には、勢力的には武田氏に従属しつつ、織田氏とは姻戚となって友好関係を維持していたのです。遠山氏の当主景任の妻おつやの方は信長の父である織田信秀の妹であり、つまり信長にとっては叔母でした。
 その遠山景任が病没すると、信長は岩村城を自分の勢力に取り込むべく手を打ちました。自分の子である御坊丸(後の織田勝長)を養子として送り込み、おつやの方に後見させたのです。これで岩村城は織田氏の勢力圏に入りましたが、話はここで終わりません。
 信玄が織田・徳川と交戦状態に入ると対応をめぐって遠山家中で内紛が起き、あろうことかおつやの方を擁する側が岩村城ごと武田側に寝返ってしまったのです。すかさず信玄は美濃方面の作戦を担当していた秋山虎繁を城主として送り込み、おつやの方はその妻となったと伝えられます。御坊丸は甲府に送られました。信長が受けた衝撃はいかばかりだったでしょう。
 以後、岩村城は東美濃における武田氏の橋頭堡となっていました。信長にとっては軍事的政治的にも危険な存在であると共に、感情的にも許しがたいものがあったはずです。何せ自分の叔母が裏切り、自分の息子が捕らえられたのですから。


 信長は長篠での勝利の早くも翌月には軍勢を繰り出し、岩村城を包囲しています。秋山虎繁は甲府の勝頼に後詰を要請、勝頼も応諾はしていますが長篠の大敗の直後でもあり、しかも先に触れた通り徳川の攻勢への対処に忙殺されている状況とあっては、実際に出兵することはほぼ不可能事でした。
 虎繁は手勢を率いて抗戦を続けました。勝頼としてもどうにかしたかったのでしょう、11月には実際に軍勢を率いて後詰に出ようとしましたが、信長も嫡子信忠を指揮官として送り込んで包囲を強めます。結局籠城すること5ヶ月、将兵の助命を条件とした降伏勧告に応じた虎繁は開城に応じ、岩村城は陥落しました。
 結果として勝頼は後詰を出すことができず、東美濃の橋頭堡までも失ったのです。
 なお、信長は開城条件を反故にしました。城兵は皆殺しにされ、虎繁とおつやの方は岐阜に連行されて磔刑に処されています。信長の怒りはかくも激しいものでした。


 天正4年を迎える頃には、武田氏の勢力圏は信玄が織田・徳川に喧嘩を売る前の状態に戻ってしまっていました。無論、それまでは友好関係にあった両家は敵に回っています。状況は絶望的なものでした。

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