以下の文章は、現段階であたしが考えていることをひとまず纏めたものです。
 いずれ新しい資料に触れるなり新しい思いつきを得るなりすれば、考えは変わるかも知れません。
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 甲斐国、今でいう山梨県に行けば、武田信玄という400年も前の人物は今なお絶大な人気を持ち、いわば郷土の誇りであることはすぐに分かります。甲府の駅から降りれば駅前広場には信玄の銅像がありますし、街の至る所にはいわゆる武田菱、武田氏の家紋をあしらったのぼりやポスターが見られます。甲州盆地という、あまり恵まれない土地柄に暮らす人々にとってすれば、日本の歴史の中で甲斐が最も輝かしかった時代は信玄の頃なのでしょうし、信玄公こそは郷土の英雄、誇るべき先祖なのでしょう。
 しかしその武田氏は信玄が死んでからほどなく滅ぼされ、戦国時代末期の天下統一過程で滅びていった有象無象の戦国大名の葬列に並べられる存在と化してしまいました。あれほど勇名を馳せた武田氏が滅んだときの当主は信玄の子、武田勝頼です。いきおい勝頼に対する世評は辛いものとなり、多くの信玄ファンや甲州人にとって勝頼というのは偉大な信玄公の覇業を台無しにした不肖の息子でしかなく、唾棄すべき存在扱いされているようです。
 別に甲州人でもないあたしが武田勝頼という人物に興味を持つようになったのは、よくある話で戦国史を題材としたゲームをやったり小説を読んだりしたのがきっかけでした。無論それらの中での勝頼の扱いは、あまりいいものではありません。しかしあたしの興味がゲームや小説から、戦国史それも軍事史やら政治史やらに向かうにつれ、もしかして勝頼は不当に貶められているのではないか、と思うようになりました。今でも覚えているのは、ある日なんとなく武田氏の人物達の名前を並べて眺めていた時の事です。
 これは後でも触れますが、勝頼の名前だけ、異常だったのです。
 戦国の武将たちは、子の名前をつけるときにある習慣を持っていました。「通字」というのですが、代々同じ文字を名に使うのです。例えば有名な伊達政宗の伊達氏の場合、通字は「宗」でした。政宗の父は輝宗、その父は晴宗、さらにその父は植宗といい、必ず「宗」の字が使われています。通字が名の上になるのか下になるのかは場合によって違うのですが、武田氏の場合通字は「信」という字でした。信玄の場合、そもそも彼の本名は晴信で、信玄というのは出家したあとの法名です。晴信=信玄の父は信虎といい、さらにその父は信縄といいます。晴信だけ「信」の字が下になっているのは、彼の名の「晴」という字は当時の征夷大将軍足利義晴から偏諱授与として貰ったものなので、目上の人から貰った字を上に持ってきたからです。
 ここまで書けば分かると思いますが、勝頼という名は武田氏の通字を踏まえていないのです。これに気付いた時、あたしは半ば直感的に理解しました。この人は、普通に信玄の後を継いだのではないのだ、と。望まれず、そして本意とは関係無しに、彼はその立場に立ってしまったのではないか、と。
 これから書き連ねていくのは、現段階で私が理解している武田勝頼という人物の足跡と彼を取り巻く時代、環境についてのことになります。

 さて、勝頼の事を書き始めるより前に、勝頼の父武田信玄のことを書かねばなりません。
 武田信玄といえば「甲斐の虎」と呼ばれる希代の名将、上杉謙信の宿敵、織田信長が最も恐れた男、あと少し寿命が長ければ時代を大きく変えた人物、などとイメージされるかと思います。
    しかしこの信玄という男、あたしはあまり評価していません。理由は色々あるのですが、この男、世評に反して致命的なまでに戦略眼が無い、と断じざるを得ないのです。
 まず、信玄の生涯は裏切りの連続だと言ってしまって過言ではありません。無論戦国乱世ですから裏切りなど日常茶飯事、表裏比興は武門のならいではあるのですが、信玄の裏切りのえげつなさは際立っています。そもそも彼が家督を相続したのは父信虎を追放してのものでしたし、それから甲斐の統一過程においてはかつて先祖が世話になっていた諏訪氏を非常にあざといやり口で裏切り、滅ぼしています。甲斐を統一して信濃に侵攻し始めると背後を固める為に小田原の北条氏康、駿府の今川義元と同盟を結びますが、これも義元が織田信長に敗れて戦死すると裏切りました。次いで織田信長及び徳川家康と同盟しますがしまいにはこれも裏切り、織田徳川連合軍との交戦中に病没することとなります。
 信玄の裏切癖は広く諸国に知られていたようで、北条氏康は「信玄は到底信用できない奴だ」と書き残していますし、徳川家康も同盟中には信玄に裏切られることを非常に警戒、全く信用していませんでした。上杉謙信が信玄を悪辣な卑劣漢扱いしていたことは有名です。そしてかの織田信長に至っては、信玄の裏切りは古今未曾有、天魔外道の類で武人の風上にも置けない、絶対に許さない、と怒り狂った書状を残しています。意外にも信長という人は義理堅い人物だったようで、実際には彼の方から約束を反故にしたり同盟を破棄したりしたことは無いのですが、これもまたいずれ触れることになるでしょう。ともあれ、信玄は人生の転機で必ずと言って良いほど裏切り行為を犯しているのです。
 この裏切りが、戦略的に練り上げられたものであってこれにより武田氏が飛躍したとかいう話であればそれもまたいいでしょう。しかし一連の信玄の裏切り行為が先の先まで見通したものだったかは非常に疑わしいですし、考えたにしても結果としては大外れの連続でした。

 一例を挙げてみましょう。今川義元が桶狭間で織田信長に敗れた後の話です。
 義元の後を継いだのは義元の嫡子氏真でしたが、元々力量が不安視されていた上に今川氏の領国のうち三河において松平元康(後の徳川家康)が離反自立し、動揺した国人衆もまた反旗を翻すという事態が発生しました。無論、この時点で甲駿相三国同盟、つまり武田・今川・北条の同盟は維持されており、苦境の今川氏を支援するという選択肢も当然ありえる話でした。実際に武田家中でもそういう意見は出ており、中でも信玄の嫡男武田義信は妻が氏真の妹だったこともあり、今川支援を強く主張しました。当たり前の話です。
 しかし信玄は全く逆の事を考えました。苦境の同盟国今川を攻撃し、その領国である駿河を奪おうとしたのです。その為にあろうことか、今川氏にとっては義元の仇である織田氏、その同盟者である松平(徳川)氏と手を組み、今川領国を分け取りにしてしまおうと動いたのです。当然義信は反発しました。彼にとっては義元は義理の父であり、それを討った信長は義父の仇に他なりません。対立が先鋭化するや、信玄は義信に謀反の嫌疑を被せて幽閉、自殺を命じます。後継者のはずの嫡男を殺してまで、駿河を得ようとしたのです。
 結果どうなったか?確かに武田氏は駿河を得ました。駿河は豊かな土地です。信玄はさぞかしほくほく顔かと思いきや、そうは問屋は卸しません。まず、今川領国分け取りの約束で遠江を手に入れた家康とはさっそく仲違いしました。欲に目がくらんだのか家康を舐めていたのか、家康の取り分と決まっていた遠江にまで手を出そうとしたのが理由です。更に、三国同盟のもう一角、北条氏とも交戦状態になりました。当たり前の話ですが、北条氏康は今川氏を裏切った信玄を許さなかったのです。氏康は新たな同盟相手に越後の上杉謙信を選びました。つまり、駿河を得た代わりに武田氏は北に謙信、西に家康、東に氏康という難敵三つを同時に抱える羽目に陥ってしまったのです。
 この危機をどうにか切り抜けるのに、信玄は三年の年月を費やすことになります。しかし甲斐、信濃、駿河、相模と転戦に転戦を重ね、勝ったり負けたりしながらようやく状況を安定させた頃には、武田氏を取り巻く状況は一変していました。三河の片隅の自立したての土豪に過ぎなかった家康は旧今川氏が領した三カ国のうち三河と遠江を抑える一大勢力と化していましたし、尾張一国を辛うじて押さえていただけの信長は家康という東の防壁を得たおかげで美濃及び伊勢を手中にし、京都に雪崩れ込む勢いを見せていました。何のことは無い、信玄は駿河を手に入れる替わりに、かつての今川氏とは比較にならないほど強大で厄介な隣国を生み出してしまったのです。
 もしも信玄が同盟を遵守し、今川氏救援に動いていたらどうなったでしょうか。後の徳川家康は三河の戦野に屍をさらすか、よくても一土豪として厳しい人生を送ることになっていたことでしょう。信長も、尾張一国から勢力拡大はそうそうできなかったはずです。対して信玄は、三国同盟の堅持によって背後を気にすること無く、信濃から美濃へ兵を進めることもできたでしょう。歴史は全然別の方向へ転がっていたはずです。

 さて、勝頼が信玄の後継者となったのは、この一連の信玄の動向、迷走としか言いようが無い右往左往が深く関わっています。
 というあたりで、続きは次回に。

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