随分久しぶりになってしまいました。
 何やら大河ドラマにも武田勝頼が出てきたりもして、少しずつではあっても彼の再評価の風潮が出てきたのだったらいいなあ、などと思ったりもします。
 この連載の最後の方でも、真田昌幸の話は多分出てくることになるでしょう。

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 一般的には、武田家の滅亡は長篠の合戦が原因だと言われています。
 確かに長篠での大敗は武田と織田・徳川の対立構図にとっては決定的な転機となったのですが、しかし武田は長篠での敗戦の後すぐに滅んだ訳ではありません。その後6年にわたって戦国大名としての武田氏は存続していますし、実は武田の領域が最大化したのはこの後の話でもあるのです。
 
 既に長篠以前、正確には今川氏が滅亡しその領域の過半を徳川氏が押さえた頃から、武田と織田・徳川連合の勢力差は隔絶していたものになっていました。もはや武田氏の勢力は単独で織田・徳川と戦えるレベルではなかったのです。信長もそれは認識していたので、長篠での勝利と岩村城奪還、つまり美濃東部の確保後は、基本的に武田対策は徳川家康に任せる形になっています。
 一方、武田側としても単独で織田・徳川に抵抗できないことは理解していたので、勝頼の努力は信長に対抗するための外交努力に傾注されることになりました。具体的には、西方の反織田勢力との連携、及び後背つまり北方の上杉氏、東方の北條氏との連携です。信長はなおも近畿周辺に敵を多く抱えており、武田氏との戦いだけに注力できる状況ではありませんでした。勝頼の活路はここにしかなかったのです。

 ここで天正4年頃、つまり長篠の合戦直後の武田氏を取り巻く外交関係を概観しておきましょう。
 武田氏の領域は本国である甲斐を中心に、善光寺平以北を除く信濃の大部分、上野の西部、そして駿河でした。それぞれ、信濃西部を境に織田氏、信濃南部及び駿河西部を境に徳川氏、信濃北部を境に越後の上杉氏、甲斐東部及び駿河東部を境に相模の北條氏と接触している形です。
 このうち、織田と徳川についてはさんざん書いてきた通り交戦状態にあります。上杉氏とは一応の停戦が成立していましたが、北條氏とはこれも先に触れたとおり険悪な関係にありました。信玄のせいで上杉以外の周辺国全てが敵に回っていたのです。しかも悪いことに徳川と北條は友好関係を保っており、駿河は包囲下にあるようなものでした。
 しかし全く絶望的だったわけでもありません。信玄の拡大路線に対抗すべく北條氏と上杉氏は同盟を結び、子のいない上杉謙信の養子として北條氏政の弟が送り込まれ上杉景虎を名乗ってさえいましたが、この二国は元々非常に仲が悪い為同盟が有効に機能しているとは言えませんでした。安房の里見氏や常陸の佐竹氏といった敵を抱えてもいた北條氏としては、上杉氏は頼りにならないと思われたのです。
 そこで勝頼は北條氏との関係修復に努めました。北條側も氏康から氏政へ代替わりしていたということもあり、武田と北條は再同盟に成功、勝頼は氏政の妹を妻に迎えることになりました。この再同盟により、勝頼は一息つくことができるようになります。
 また、上杉氏との関係改善も一定の成果を得ていました。上杉謙信は従来武田氏に対抗する為もあって織田氏とは友好関係にあったのですが、織田氏の勢力があまりに拡大するとさすがに脅威を覚えるようになっていたのです。
 その一方で、勝頼は信長との和平も模索します。北條氏や佐竹氏に仲介を依頼して交渉を試みていますが、これはものにならずに終わりました。信長からすれば今更武田と手を結ぶ必要性など無いのは当然でしょうし、信玄への怒りはいまだに薄れていなかったのでしょう。

 かくして天正4年から数年間、勝頼には国力回復と状況整理に注力し、これには一定の成功を得たと言ってもいいでしょう。上杉及び北條と連携して西方からの脅威に備える、との基本路線は間違ってはいませんでした。いや、そうする他に手はなかったと言って良いでしょう。
 しかし転機はじきにやってきました。上杉謙信の死がそれです。
 

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